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磨工室瑣談 1 名倉砥について

磨工室瑣談とは

昭和2年から昭和9年まで、医科器械学雑誌 叢談 「磨工室瑣談」に掲載された天然砥石の産地に関する調査報告書である。

当時の大日本帝国陸軍には陸軍が永久に一つの地に配備駐屯する衛戍(えいじゅ)地が各地にありました。その衛戍地に設置された病院が衛戍病院であります。

その病院には磨工室と言う病院で使う金工関係の仕事、手術用具、刀やカミソリ、工具を研磨する部署がありました。そこに従事する方々が仕事に使う砥石の産地を調査報告した物がありましたので随時掲載したいと思います。

まずは、名倉砥です。


                                                     醫科器械學雜誌 5(2), 76-78, 1927-08-20
1 名倉砥について
陸軍ニ等薬剤正 北川 順
名倉砥は一名三河白と言われています。砥質は精細であり硬軟ちょうどよく鋼を研琢する性能に富んでいます。刃器の研磨に適し、昔から刀剣研磨師に重用されていました。
そうであるのに、この産額はほんのわずかで良品は明治20年頃までに採掘し尽くし、今時産出するものは
良品ではありません。私はこれを調査しようとして思っていましたが、今回出張の余暇を活かして念願の
機会を得ましたのでこれの報告をいたします。
名倉砥の産する土地は三河国北設楽郡三輪村であり、他の地方では産しません。三輪村の地は豊橋市北方おおよそ40キロメートルの山中であり、豊橋市より豊川及び風来寺鉄道により約2時間で三輪村川合に到着します。ここより険しい山道を歩いて約8キロで採掘所に到着します。
今は宮内庁管轄御料林に属し、鉱区は神明山南側の地区で地域は大変狭いところです。
現在採掘している鉱脈は只一か所だけです。ただし神明山北側の採掘しつつあるが鉱脈の情況は南側のものと異なり又、品質は前者に比べ大変粗悪でありました。
名倉砥採掘の沿革ははっきりしていません。、古老の伝承によれば足利時代に三河国北設楽郡名倉村の郷士名倉左衛門という人が在り、常に山野に狩猟をすることを好んでいました。ある日三輪村の山中で一塊の石を拾いこれで矢じりを研いでみると、大変良い刃が付きました。それで、このことをいろんな人に勧めて歩きました。これが始まりと言われています。
以来少量の産出がありましたが、これを大量に採掘したのは正徳二年三河国八名郡大野町の戸村氏の二代目の租戸村五兵衛氏でありまして、氏は名倉砥を徳川幕府の御用研ぎ師本阿弥家に納入することを始め、以来子孫相嗣でこの仕事を専業とし他の人がこの仕事をすることを禁じた。本阿弥家の他江戸、大阪名古屋にも販売をしました。当時三輪村の砥石山は徳川幕府に属するいわゆる天領であって、戸村家は年額三両の年貢を納め、十数人の人夫を使い採掘をしていたと言われています。
明治維新後廃刀令の発布と共に戸村家はこの仕事を止め、のち数年間は採掘する者がなかったが、明治17年になり三河国八名郡舟着村の菅沼耕一氏が名倉砥採掘の再興をし、のち数年して砥石山の管理者であった児玉勝吉氏に業を譲渡しました。以後産出の情況は年により盛衰があり、明治36年淺野總一郎氏及び米国人スミス氏が経営に係わり、横浜の日本石材株式会社を通じ米国に輸出することになり盛況となったことがあったと言います。児玉氏は大正十年業を辞し今は同氏の手代であった小塚道助氏が経営しています。
ただし、十数年以前、豊橋市の安田太郎氏は前述の神明山北側の地区に採掘を始め、今なお採掘をして同じ三河白砥石と称していますが、その質は真正の名倉砥とは少々異なります。
名倉砥の品質はきぐち(黄口)、しま、しろどめ(白止)の三種からなります。
「黄口」は黄白色を帯び、砥質最良好であります。本品は徳川時代より菅沼氏経営している時代までに採掘し尽くされ、今はこのようなものは産出しません。ただし、戸村家の倉庫には当時の残品約二千貫を所蔵しており同家の当主文三郎氏は熱心家の要望に応え一部を一貫目当たり25円で分譲しています。
「しま」は白色で黄色の条理があり砥質は前者に次ぐものです。
「白止」は純白色であり砥質は前二者に比べ軟らかく品位も最も劣ります。価格は一貫目当たり8円内外であります。現在は主として「白止」のみの産出でたまに「しま」を産出することがあります。
近頃産出する物は砥質内に軽石(石工は「はり」と称す)を混有するものもあります.
考えるに、名倉砥は元々白色の物であるはずですが、これに赤土が微妙に混入したものが黄口となります。であるから白止が必ずしも品位が劣っているとは言うべきではない。ただ黄口の産出していた時代に発掘した地域に埋蔵した物であります。砥質は緻密であり、現在採掘しつつある地域にあるものは砥質が粗いだけというべきであろう。
名倉砥の含有する水成岩の鉱脈は位置により異なりますが、高さおよそ三尺二三寸(1m)、幅およそ二三間(3m)で大体水平に走り、少し山頂に向かい傾斜しています。鉱脈は上下に層をなして相重り石工の習慣により順次に下の名称を付けています。(今もこの名称は変わりません。)
てんじょう、めじろ、せりづな、第一あつぶた、第二あつぶた、ちやうす、とめ、大むし、小むし、あつど、つち、以上は十一層でありますが、十二層と言う者もあります。  その一層の名称は不明である。
以上の鉱層中名倉砥として使用のできるものは「とめ」及び「あつど」の二層に限り他は皆砥石としては使用に堪えない。そして、「とめ」の厚さおよそ一寸八分(5.5cm)、「あつど」の厚さおよそ二寸(6cm)であります。
採掘の方法は山腹に穴をあけ石割用ノミを用い鉱脈を層に従い剥し取り、鉱脈に従い山心に向かい穴をあけ進む。掘り出した砥石は大小さまざま(大は幅二三尺長さ三四尺)の板状にして搬出していました。
砥石山は現在宮内省御料林なるので採掘者(小塚道助、安田太郎の両名)は帝室林野管理局の許可を受け税金を納めました。実際採掘の石工は農家の副業で、夏冬の時季を選ばず暇ある時に採掘をしていました。採掘権所有者はこれに日当を支払ました。一年の産額は不明でありますが甚だ僅少で需要もまた多くはありません。東京における問屋は本所の岩田商店、浅草佐久間商店などです。
以上記述した事項は戸村文三郎氏、小玉勝吉氏、小塚道助氏の妻女、安田太郎氏、川村平次郎氏にお教えいただいたものです。特に川村平次郎氏は安政元年の出生で当年73歳になります。戸村家時代よりの石工であり、私は実際の採掘の所は見ていません。川村氏より砥石山の情況を判断いたしました。
最後に附記すことは大野町の戸村家及び鉈屋の井戸は三河白砥石で築き上げられているということですが、私はこれを上記の諸氏に質問したがこれらは皆嘘であるようです。
                                                                         (大正15年12月稿)
この原稿は大正15年に書かれたものであり、今・現在=大正15年、価格も当時のままです。
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